ルッキズムとの向き合い方を学ぶ

1月24日に開催された、国立市の人権講座『どうして私たちは見た目で判断してしまうのか』“綺麗”や“かっこいい”との向き合い方(全3回)の第1回目をオンラインで受講した。

講師は美容ライターの長田杏奈さん。

市のHPには、下記のような趣旨であると書かれている。

第1回は、個人がもつ一面的な美意識について、美容を通して考えます。誰のための美容か。そのときの気分や目指す姿などの思いを大事にして、“自分がこれでいい”と思える容姿との向き合い方について学びます。


もともと長田さんの書籍やポッドキャストが好きだったこと、また、以前から「ルッキズム」についてちゃんと学びたいと思っていた自分にとって、まさに「こんな講座を求めていた!」という内容だ。

以下、個人的に印象に残ったトピックの紹介と、関連して自分が感じたことをレポートしたいと思う。


事前に配られた資料データのタイトルは、「美容とルッキズム~生きてるだけで美しい~」。

これはもう、長田さんから受講者に(いや、世界に?)向けたメッセージそのものだろう。

“美容ライター”と聞くと、「どんだけ美意識高くて審美眼でバッサバッサと斬り捨てられるんだろう」と勝手に警戒してしまいがちだが、長田さんが提唱する美容は、美容しないことも尊重できる、セルフケアも重視した自分を慈しみ表現する美容だ。

2019年に出版された『美容は自尊心の筋トレ』という本にその内容が凝縮されているので、未読の方はぜひ手に取ってみてほしい。


♦「ルッキズム」と「見た目問題」は別物

まず、自分がハッと気づかされたのは、冒頭で説明のあった、ルッキズム(外見的な美醜を偏重して人を評価すること)と見た目問題(外見的な症状で偏見や差別を受ける問題)は違う、ということだ。

自分を含め、ここをごっちゃに考えてしまっている人は、けっこう多いのではないだろうか。

「見た目問題」は、例えば脱毛症、アルビノ、口唇口蓋裂、また事故や手術後の傷痕などで差別を受け、その差別を問うためにつくった言葉である。

ルッキズム=見た目問題にしてしまうと、当事者たちが問題を提起するためにつくった言葉を奪い、本来の意味を変えてしまうことになるので、ルッキズムとは近いけれども区別しておくことが重要である、ということを講義のはじめに教えてもらえたのはとても大きかった。

長田さんの、「見た目問題」を扱ったおすすめの書籍も紹介されたので、ぜひ読んでみたいと思う。


♦女性が受けてきた容姿差別

「ルッキズム」という言葉ができるずっと前から、女性たちは容姿差別に苦しみ、抑圧を受けてきた歴史がある。『源氏物語』などでも、「顔が美しくない」とされた女性がひどい扱いを受け、容姿の美醜が生存そのものに関わるといったことが描かれてきた。講義では、このような容姿差別の歴史についても触れられた。


これは男性優位社会の現代にも通じるところがあり、ここを根本的に解決するにはやはり女性が男性の経済力に頼らずとも(=選ばれる性からの脱却)安全に生きていける、女性差別による就労問題や賃金格差の是正が必須であると感じた。


♦ルッキズムの拡大解釈の弊害/ルッキズムからの脱却

わたしは美しい人を見るのが好きだ。兼業でやっている舞台の取材ライターの仕事では、「ほんとに自分と同じ人間か?」「今、自分が何次元いるのかわらない」と感じるほど、現実離れした美スタイルな方々を目の前にすることがある。また、舞台上でパフォーマンスする俳優やダンサーの美しい姿態から放たれる、圧倒的なオーラや「美圧」を受けて恍惚となる瞬間も大好きだ。

けれど、同時に「他者の身体の美しさ」に惹かれ、称賛すること自体がルッキズムであり、称賛される側にももしかしたら不快な思いをさせてしまっているのかもしれない……という不安や恐れも常に抱いていた。

ルッキズムはよくない、と思いながら、自分もルッキズムに囚われている――。

わたしが「ルッキズムについて勉強したい」と思う理由はいくつかあるけれど、この矛盾とどう向き合ったらいいのか知りたかったから、というのも大きな要因だった。


そんな想いを、ふっと軽くしてくれるように、長田さんは“ルッキズムの拡大解釈の弊害”と題して、次のように語ってくれた。

「見るな・感じるな、ということではない。
視覚から入ってくる情報量の多さや刺激を“無力化しろ”という話ではなく、「美しい」と感じる感覚や、自分の見た目に関してたのしんだりすることも尊いこと。真面目で優しい人は「罪悪感」を煽られやすいので注意。ルッキズムがなくなったほうがいい、というのと、見た目をたのしんじゃいけない、というのは違う話」

この提言は、メイクやファッションも好きだけれど、それはルッキズムを推奨する行為になってしまうのではないか、という戸惑いを抱えてきた人たちにとっても、やさしく心と頭を解きほぐしてくれたのではないだろうか。

私自身、「それとこれとは別だよ」って、誰かに言ってもらって安心したかったんだなあ、と実感した瞬間でもあった。


一方で、褒めているつもり、良かれと思って言った言葉がハラスメントになる可能性があることの重要性も同時に語られた。

<今から口にする美点は、「相手が選んだり、変えられることだろうか?」

相手が選んだもの(アイテムとか)を褒めるとハラスメントになりにくい。>

これは日常生活のなかで、気を付けていたいポイントだと思った。(あと、芸能人の○○さんに似てる、とかも、安易に言ってしまわないように気をつけなきゃな、と思う)


また、ルッキズムからの脱却として、さまざまな文化や芸術に触れ、美のストライクゾーンを広げることの大切さも説かれた。

長田さん自身が、自粛生活で少し体重が増えたけれど、自分の肉付きが「ルノワールの裸婦っぽいウエストライン」になった、というふうに捉え、イメージを重ねることで美しいと感じる「フィルター」が増えるのでおすすめですよ、と具体例を挙げながら話してくれたのも印象に残った。

わたしもかつて、自分の身体の薄さや骨ばった上半身がコンプレックスに感じていた時期があった。でも、ある時「いや、これはこれでバレリーナみたいな趣があっていいぞ」という捉え方をするようになってからは、わりと気にならなくなり、じゃあこの骨格が活きてきれいに見える形の服ってどんなだろう?という視点を得られた経験があった。
この「転換力」は、きっとあればあるだけいいし、様々な美に触れると同時に、「自分自身に詳しくなる」ことでもっと開花できる力であるとも思っている。

そういう意味でも、自分が望む最終的な「美」の形って、「自分に似合うものを知っている」という状態にある、ということかもしれない。

「あの人、素敵だな」って思うときも、「何を選べば自身の魅力がより発揮されるか」を熟知している、その磨かれたセンスやスキルに憧れを抱いているのだと思う。


♦日本女性が置かれる負のトライアングル

講義の終盤では、「日本の女性はルッキズム・エイジズム・セクシズムのトライアングルの中に置かれている」という議題も挙がった。

<“大人の女性の美しさ”を捉える感性が極端で、リアルな大人の女性の素敵さのサンプルが少ないのが、今の日本の現状。>

これは本当にそうで、だから今、「中年女性のロールモデルが不在」と言われているのだろう。

突き抜けたスーパーウーマンにはなれないし、憧れない。そんな私たちが、「いいな。あんなふうに年を重ねて、人生を謳歌したい」と思うような人って、どんな人だろう。わたしはまだ、身近なロールモデルを見つけられていない。(でも、無理に探そうとしなくてもいいのかも、と最近思っている。)


♦心地よい距離を見つけたい

後半の参加者からの質疑応答時間も含め、これから人々の“ルッキズム”への関心は、もっと増えていくだろう、という印象を持った。質問者それぞれに切実さがあったし、「これからもっとみんなで一緒に考えていこう」という空気に満ちていたからだ。(オンラインだったけど、画面越しに感じたよ!!)

ルッキズムに関する書籍もまだ少ない今、学びたい、向き合いたいと思う人たちの期待に応えてくれるような講座を受講できたことを、とても幸運に思う。

ルッキズムは手強いし、完全な脱却というのは難しいかもしれないけれど、これからも自分なりに対峙し、「心地よい距離」を探り続けていきたい。

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